午後からボーリングに行くけど桜子さんもどう? そんな志田君のお誘いを丁重にお断りして、私は図書館に向かう。
 午後の授業はないけれども、だからといってあの二人とボーリングなんて出来ない。
 普段は足を向けない、文学のコーナーへ向かう。ルイス・キャロルはイギリスの人だっただろうか?
 棚をうろうろとして、ようやくお目当ての本を見つける。『鏡の国のアリス』。
 手近な席につくと、それを捲った。
 問題の台詞は何処にあるのだろう。ぱらぱらと目を通す。一体どこら辺の台詞かもわからないし。でも最初から読むぐらいならば、その時間を勉強に充てたい。
 そんなことを思っていると、
「貸して」
 背後から手が伸びて、本が取り上げられる。
 驚いて振り返ると、そこには椿姫の姿があった。ふわり、と甘い香りが彼女からする。香水なんて、つけているのか。
 極力、彼女を避けて来たので、こんなに間近で見ることになるなんて思わなかった。
 あっけにとられる私に構うことなく、彼女はぺらぺらとその本を捲っていく。
 その指先は驚く程白く、そして爪は何故か黒かった。なんでそんな色のネイルをチョイスするのだろうか。
 ばさり、と音がしそうな睫毛が一度瞬きをし、
「はい」
 開いた本を渡された。
「えっと……」
「赤の女王様でしょう? ミス・ローヤーがわざわざこんな本読むなんて、他に考えられない」
 それから赤い唇で笑った。
「生物学」
 ああ、そうだ。そう言えば彼女のフリルまみれの姿も教室にはあった。
 視線を本に落とす。
 そこには、
「いいかい、その場に踏み止まるためには、力の限り走り続けなくてはならないだよ。もし次のところへ行きたいのなら、その二倍の速さで走らなくてはならないのだ」
 その文章を椿姫が読み上げた。
「……そこでしょう?」
 問われて、悔しいながらも頷く。
「ありがとうございます」
「いいえ。ロリィタにはアリスは一般教養だから」
 当たり前のように彼女はそういうと、そのレースだらけのスカートを揺らして立ち去った。
 知らず知らずに溜息がでた。
 あんな人に私は勝てない。ロリィタ? わけがわからない。
 勉強だけじゃなくて、この本で負けたことも悔しい。
 だから、私は二倍速く走らなければならない。


 図書館で夕方まで勉強してから家に向かう。我が家のルールで、夕食は原則的に決められた家でとることになっている。全員が揃うことはめったにないけれども。
 今日も父はまだ帰って来ていなかった。母と二人の食事を終えて、少し話をしてから自室に戻る。
 机の上にあるケータイが、メール着信を知らせていた。
 志田君からだ。今日はありがとう。菊も喜んでいた。そんな内容のメール。
 アドレスを交換したのは、高校二年の夏頃だ。きっかけがなんだったかは忘れたが、その時には既に彼のことが気になっていた私は、内心小躍りしたいぐらい嬉しかった。もちろん、私がそんな真似するわけないが。
 こっそり別に作った、志田君専用のメールフォルダ。中には殆ど事務的な内容のメールしか入ってない。それでも消せずに、私はそのメール達を大切に守っている。
 別に、今でも好きなわけではないのに。諦めたはずなのに。
 当り障りなく返信メールを作成すると、ケータイごとベッドに倒れ込む。
 諦めたのだ。私とはまったく違う菊のことが、好きな彼を。二年の夏から三年にかけて、諦めたのだ。受験勉強に集中するために。そんな目的で。そんな理由で。そんな風に言い聞かせて。
 まさか、同じ大学で、同じ学部で、こんなに会うことになるなんて、受験生だった私は思いもしなかった。
「やぁ、桜子さん。また四年間よろしく」
 入学式のあの日、軽薄そうな、それでいて優しいいつもの笑みを浮かべて言った志田君。あの言葉で、私の心の中にあった、燃え残った何かにまた火がついた。それから一年。私は必死に、それを消した。
 諦めなければならない。
 恋愛は嫌いだ。
 私を弱くする。
 高校二年の自分を思い返すと、穴があったら入りたくなる。恥ずかしい。みっともない。
 口では色々言いながら、彼に会うことを楽しみにしていた。彼に会うためにわざと下校時間をずらしたりしていた。会ったところで、憎まれ口を叩くだけなのに。
 メールだってそうだ。大事に何度も読み返して。
 思い返すだけで恥ずかしくて、死んでしまいそう。あんなふわふわした、弱い私は嫌いだ。あんなものは要らない。
 恋なんて要らない。
 走らなければ。どこまでも。最後まで。二倍速く。  あの子より、佐藤菊よりも先に進むために。
 勢いを付けてベッドから立ち上がると机に向かう。
 止まっている暇なんてない。
 止まったらきっと、なにもかも失ってしまう。