人間なんて社会の歯車でしかない。
 消耗すればまた新しい歯車がやってくる。
 まったくもってその通り。
 例えば、急に総理大臣が死んでもすぐに代わりは見つかるし、有名なスポーツ選手が死んでもすぐに新しい人が注目されるだろう。
 一時的に悲しんで、それで終わり。
 それを悪いとは思わない。むしろ心地よいと思う。
 だから、例えばこの店にとってたかがアルバイトの私一人が辞めることはなんの損失にもならない。
 そして、目の前のこの人が辞めても大した損失にはならないだろう。
 しかし、アルバイトの私が辞めるのと、この店長が辞めるのとでは色々と問題の大きさが違うけれども。

「本気なんですか?」
 椅子があるのに床に座ってぷかぷかと煙草を吹かす店長に問う。
「本気だよ。もう辞表は出した。今月いっぱいで終わりだよ」
 あきれた、と私は呟いた。
 今日は16日。
 いつ辞表??正式には退職願といわなければならないのに??を出したのかはわからないが、今日より前のことは確か。
 民法の規定でも、最初にだした雇用契約書にも届を出してから二週間たてば退職できることになっているから、今月末に辞めても問題は無い。
 しかし、
「貴方には仕事に対する責任感というものは無いんですか? そんなに急に辞めて」
「新しい人がちゃんとくるって。みんなで何かあったら教えてあげて」
「また、そういう適当なことを」
「だって、これ以上続けられないもん」
 今年で29になるという、このどこかちゃらんぽらんな雇われ店長は子どもみたいに言った。
「毎日9時から働いて終わるの10時過ぎだし、残業代がでるわけじゃないし、下手したらスイリちゃんよりも時給安くなるしさぁ」
 ぶつぶつと言う。
「労働問題を専門にしている弁護士、紹介しましょうか?」
 そういうと、店長は驚いたような顔をしてからくっくと笑った。
「それはそれは、スイリちゃんらしい発言だ」
 馬鹿にされたようで私は少し不愉快に思い、眉をひそめた。
 そもそも、何ゆえ私は、バイトの休憩中にこんな辞めるだのなんだのという重たい話を聞いていなければならないのか。
 不服に思って反撃に出ることにした。
「でも、理由はそれだけではないのでしょう?」
 そういうと、店長の表情が変わった。
「それだけならば、何も今この時期にやめることはない。違いますか?」
「……知っているんだ?」
「ええ、おそらく。みんな知っていると思いますよ」
 そういってから、それは不適切だったと思いつけたした。
「この場合のみんなというのは、私が知っているアルバイトの人間みんな、という意味です。……別れたって本当ですか?」
 彼がアルバイトの女子大生と付き合っていることはみんな知っている。本人達は隠そうとしていたみたいだけれども。
「ああ、別れたよ。無理だった。やっぱり、無理だった」
 先ほど本人の口から出たように、彼の労働条件はいいものとはいえない。
 というかむしろ、立派に労働基準法違反だ。まぁ、あの法律は割合有名無実だけれども。
 そんな状態では休みもとれない。
 したがって、ただでさえ年の差がある二人の間に出来た溝は、推して知るべし。
「だから、辞めるんですか?」
「勘違いしないでくれよ。だから、じゃない。それも理由の一つではあるけどね」
 そういって、思い出したかのようにふぅっと煙を吐く。
「彼女が辞めなくていいように」
 私はそう言うと、店長は少しだけ眉をひそめた。
「まぁ、ね」
「でも、すぐに彼女も辞めると思いますよ」
「まぁ……だろうね」
 時計に目を移す。もう休憩も終わる時間だ。
 タイムカードを手に取る。
 彼女がここを辞めたがっていたのは知っている。でも、ここにくれば恋人に会えるからずっと続けていたから。理由がなくなって、彼女が続けるとは思えない。
「でも、人間なんて所詮歯車ですから」
「?」
「かみ合う人間がいても少しずつ磨耗していってそのうちまったくかみ合わなくなったりするものです。仕事も、恋愛も。貴方がいなくなって、しばらくはこの店は混乱するでしょう。でも、二週間もたてば元に戻ります 彼女もここを辞めて、貴方も彼女もまた新しい恋人をみつけて、そしてもし、磨耗していく速度が遅ければ、その仕事も恋愛もずっと続く、それだけですよ」
「スイリちゃんらしいね。慰めてくれてるんでしょ、それ」
 店長は煙草を灰皿に押し付けながら言った。
「それで、スイリちゃんとホーセイくんの歯車はあってるの?」
「あっていなければ続けていませんよ。あんな社会不適応者な人間の恋人も、ヤクザな仕事の助手も」
 それだけは、自分の愚かさにあきれ返ってしまう。
「まぁ、だろうね。スイリちゃん、ホーセイくんにベタぼれだもんね」
 先ほどの嫌がらせが過ぎたのかもしれない。店長が反撃にでてきたことを察した。
「かもしれませんね」
「最初に会ったときもそうだったよね〜、まずさ」
 懐かしそうにあの時の話をはじめようとする。
 かぁっと顔が赤くなるのがわかる。
 恥ずかしい、恥ずかしい。
 最初、依頼人として現れた彼を前に、私はとんでもない失態を演じてしまった。それも、ホーセイがらみで。
「そんなことはどうでもいいじゃないですかっ!」
 そう怒鳴るようにして言った。
 店長はニヤニヤ笑っている。
「やっぱり、ベタぼれだよね。スイリちゃんが怒るのって彼の時だけだもん。それもまた、愛のしるし?」
「しつこいですよっ!」  そうかそうか、と店長は嗤う。
 悔しくて、乱暴にカードを切るとカードを元の場所に戻す。
「レストアップしますっ!」
「はい、お願いします」
 ひらひらと手をふって店長はいい、私はドアを開けかけて、そこでとまる。
 振り返らずに言った。
「私が怒るのを愛のしるしというならば、貴方がここをやめることも、彼女がここでずっと働きつづけていたことも、愛のしるしになるんでしょうね」
「……だと、いいけどね」
「いずれにしても、二年間続いてきた貴方との友好関係が一応の終焉を見せるのかと思うと哀しいですね」
 店長がどんな顔をしたのか私は知らない。
 後ろ手でドアを閉めて、私は仕事へ戻った。