ケータイ電話で、メモリを呼び出して、そのままの体制でじっとそれを睨む。
 良心が痛む。
 意を決して私は通話ボタンを押した。

『もしもし?』
 聞きなれた声に早口に告げる。
「ごめん、土曜日の予定無理そう」
 一瞬の間があって、
『あー、まぁ、いいよ。仕事でしょ?』
 シンは務めて明るい口調で言った。
「ごめんねー、日曜は?」
『日曜……ちょっとまって。あ、その日は俺がだめだ』
「……そう」
『……ごめん』
 沈黙
 シンが悪いわけじゃない。約束をすっぽかしているのは私のほうなのだから。
「ごめんね」
 もう一回いう。
 電話を切っても、心臓が痛かった。シンは本当に落胆したような声をするから。
「ごめんね」
 もう一度呟く。
 お互いに仕事が大事なことがわかっていての関係だけれども、そうだとしても私は約束をすっぽかしすぎなんじゃないかなぁと思う。
 *

 土曜日、依頼人との待ち合わせ場所へ向かう道で、小鳥遊さんに会った。
「……あら」
 小鳥遊さんは憮然とした表情で言った。
「こんにちは」
「あなた、今日も仕事なんですって?」
「ええ、まぁ」
「デート、すっぽかされたって言われたんだけど」
 そういって小鳥遊さんは肩をすくめる。
「……慎吾に?」
「ええ」
「……そうですか」
 視線を落とす。
 申し訳なさで泣きそうになる。
「あなたね、仕事が大事なのは知っているけれども、もう少しあれに構ってあげなさい。じゃないと、あんな社会不適応者に首輪もつけないでうろちょろされると迷惑なのよ」
 そういって彼女は立ち去る。……アドバイスされたのか馬鹿にされたのか、なんなのか、相変わらず良くわからない人だ。悪い人ではないと思うんだけど。
 少し、苦笑した。

 *

『合格、おめでとう』

 一番最初に祝ってくれたのは、彼だった。
 というか、そのときの私にはシンと、それから上泉先生以外には合格したことを報告する相手がいなかったし。
 もう、過去の話だからいいんだけど。

 ずっと、見守っていてくれた。
 そのことに感謝しているし、実際、シンがいなかったら途中でくじけていたかもしれない。
 そう考えたら、どちらが大事なのか簡単にわかりそうなものなのに。
 なのに、私は、仕事を選んでしまうのだ。

 そんなことを思いながらの帰り道。
 すっかり遅くなったなぁと思い、ため息をつくと、家のカギをあけた。

「あ、おかえり」
 かけられた言葉と、玄関に当たり前のように置いてある靴に軽く眉をひそめる。
「シン?」
「勝手にあがってた、ごめん」
 いろいろ言いたいことは浮かんだけれども、結局何も言わないで口をつぐんだ。
 まったく、彼のこういう強引なところは嫌いだけれども、それでも、嬉しいと思うわたしがいる。
「夜、食べた?」
「……まだ」
「よかった。昨日の残りの肉じゃがなんだけど、食べる?」
「……うん」
 それはよかった、と彼は笑い、お皿にその肉じゃがをのせるとレンジで温めはじめる。
 妙に家庭的だよなぁ、と思う。多分、料理は私よりも出来る。悔しいけど。
「ご飯、勝手に炊いたんだけど」
「……うん、いいよ、別に。むしろ、手間が省けた」
 そんなことを言いながら荷物を降ろし、コンタクトを出すために洗面所へ行く。

 騙されているよなぁと思うときがある。
 この人のこういうところに。
 自分勝手なように見えて、ちゃんとこっちのことを考えてくれていること、本当はとても感謝している。
 言わないけど。
 でも、それは同時に、だから離れられないんだよなぁとも思わせる。
 言うなれば、くもの巣にひっかかったような状況で。
 ふぅと、ため息をつく。

「疲れた?」
 お味噌汁まで作り出した彼が言う。
「……そうね、まぁ割と」
 今どっと疲れたような気もするけど。
「大変だね、まぁ忙しいのはいいことかもしれないけど。この不景気に」
 ご飯とお味噌汁、それから肉じゃがをよそってやってくる。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
 彼は自分の分をもって私の前に座ると、
「いただきます」
 至って当たり前の動作で食べ始める。
 それをみて、苦笑すると私も
「いただきます」
 食べ始めた。

「あ、そうそう」
 肉じゃがを頬張りながら、シンが思い出したかのように言う。
「まだ、返事もらってなかったから。おかえり」
 シンが微笑んで言うから、
「……ただいま」
 結局、私は素直に受け入れた。


甘い罠