「正しいことがいつも正しいわけじゃないのよ!」 テレビから聞こえてきた声に、アイロンをかけていた手を止める。 なんとなくつけていたテレビ。新番組のドラマ。 間違ったことにはきちんと筋を通すべきだという彼女に、その女性は怒鳴った。 「あなたが正しいことをすることで、こちらにとばっちりがくるのよ! もう少し、まわりとの和を考えたらどうなのよ、大人でしょう」 大人って、何かしら? 手を伸ばし、リモコンをとりあげるとチャンネルを変えた。ニュース番組。 新宿で女性が一人、殺されたらしい。 アイロンがけを再開する。 大人って、何かしら? 殺された女性に目立ったトラブルなどはなかったらしい。財布が盗まれていたことから、警察は物取りと怨恨の線で捜査を開始するらしい。 正しくない、正しいことってなにかしら? アイロンをかけ終わり、ぴしっとなったワイシャツを一度眺める。うん、っと私は笑った。このぴしっとしたワイシャツを見るのがすきなのだ。一週間に一度、一週間分のワイシャツにアイロンをかける。アイロンがかかったワイシャツが七枚並んでいるのは、なかなかに楽しい光景だ。 正しくない正しいことってあるのかしら? その自己矛盾は何かしら? 次は秋田で交通事故があったらしい。飲酒運転。そういえば、例の危険運転致死罪を適用しなかったあの裁判、あれを正しくないと罵っている人たちがいた。 正しくないってどういうこと? じゃぁ正しいことってなに? 正しいことがいつも正しいとは限らない。正しくない正しいことはそれは、正しくないことなんじゃないのかしら? それとも、それでも正しいことなのかしら? ドラマの中のあの人だけじゃない。私たちは多くの正しいことを切り捨てて生きている、といっても過言ではない。 私だって自分が絶対正しいと言い切る自信はない。路上喫煙を黙認することも、車内マナーの悪い酔っ払いを遠巻きに眺めていただけのことも、ある。 でも私は、それらをしなかった自分が間違っているのだということを、本当は知っている。それらを注意する人間が、たとえまわりから空気が読めていないと言われようとも、正しいのだと分っている。 ドラマの中のあの人だって、正しいことは知っているんだ。自分で正しいことを認めているんだから。 どこかの公園ではたむろしていた高校生を注意した男性が5人がかりで殴るけるの暴行を加えられたらしい。 正しいことをした人間が、どうして正しくないことの被害にあわなければならないのだろうか? それって、間違っているのではないだろうか? アイロンを片付け、ソファーに座る。 ニュースは天気予報に移り変わった。明日は雨だ。 机の上のケータイをとりあげて、いつもの番号にかけてみる。数回のコール音のあと、無機質な機械音声に変わった。今一番、声を聞きたいあの人は、今は電話に出られないらしい。 まわりとの和って、そんなに大事だろうか? というか、どうして周りとの和をとろうとすると、正しいことが出来ないんだろうか? そんなの、「和」と言える? メール作成画面を開くと、私は彼宛にメールを打った。 to:渋谷慎吾 title:課題 object: 貴方が思う正義論について述べなさい。明日の12時までに送ること。 送信。 まわりとの「和」=正しいこと、だったらば何の問題もないのに。大多数の人が、正しいことを正しくないと動くのってどうなのかしら? 仕返しが怖いから、とドラマの中のあの人は言っていた。正しいことを注意して、仕返しされるのが怖いから、だといっていた。それは、一人、二人で注意すればそうなのかもしれない。だけれども、あのドラマの中であの人のとりまきを含めた十数名で抗議しても、それでもやはり仕返しされるのだろうか? 正しいことが多数である世界ならば、不正を正した際の仕返し何てなくなるのではないだろうか、なんて私が甘いのだろうか? 正しいことを正しくないとするということは、自分が正しくないことに巻き込まれても、文句は言えないってことなんじゃ、ないかしら? 「正しいことをしていたって、不正に巻き込まれるなてざらなのに」 小さく思わず呟いて、ふっと一人で笑う。 なんだか思考の渦に飲み込まれていきそうだ。ここは、深い深い思考の海。私はその中で、一人動けないでいるの。 正しいことを正しいといえる大人になりたくて、私みたいに突然正しくないことに襲われる人を助けたくて、だから私は弁護士になった。 でも、なってから思う。弁護士になっても、私はまだ昔あこがれた大人ではない。正しいことを正しいとは言い切れない。正しいことは周りのどんな状況があっても正しいのだとはいえない。報復を恐れていないとはいえない。 なんて私は、惨めで格好悪くて馬鹿なんだろう。 息ぐるしい。 ピロロロン…… 握ったままのケータイから音がする。メール受信。 from:渋谷慎吾 title:Re:課題 object: いまはりこみちゅうだから取り急ぎ、おへんじだけ 世界が反対しても茗ちゃんが正義だと思うことをしなさい。おれもするし おわったらでんわするからまってて(あといち時間ぐらい 本当に急いでいたのだろう。殆どがひらがなのメールに思わずくすり、と笑う。 「世界が反対しても自分が正義だと思うことをしなさい」 大学時代の恩師がよく言っていた。そうだ、簡単なことなのに。 私は私が正しいと思うことを、正しいと思うからやる。例え、それは正しくても正しくない、なんて反対されても。きれいごとでも。少しでも、正しいことが広まればいいのに。 ほんの少しだけ、浮上した気がした。小さく息を吐く。 あと一時間ぐらいならば、この思考の海に溺れていても構わない。彼ならば、きっと簡単に私を水面に連れ出してくれるだろう。 「そんなにこの海は深くないよ」なんて、言って。 深海
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