やめておけ、と言われた。 ああいう人間は何を言っても聞かないのだからやめておけ、と言われた。 それは無駄なのだ、と言われた。 常識のない人間に常識をといても無駄だ、と言われた。 やめておけ、と言われた。 気づいた瞬間、彼の頬を殴っている自分がいた。泣きそう、だ。 目の前の彼は大きく目を見開いて、珍しく驚いたような顔をしていた。それは、叩かれたことについてか、 「めい、ちゃん?」 自分が泣き出したことについてかはわからない。 「え、ちょ、ごめ、え、」 こんな駅前で、とは思ったけれどもなんだかとまらなかった。 「ごめんなさい、ちが、ごめん、」 額に両手を当ててうつむいた。 「え、なんか、ごめん」 「違う、ごめんなさい、」 わかっている。 路上喫煙禁止区域ですぱすぱとタバコを吸っている人間に注意しようとした自分をとめた彼の気持ちは、わかっている。 危ないことをしてほしくないの。余計なことにまきこまれたら悲しいの。 だってそれは、自分がいっていることだから。でも。 「ごめんなさい」 わかっている。 彼の無鉄砲な行動にいつも心臓が凍るような思いをしているのは私で、だから、彼の言いたいこともよくわかる。 でも、 「ごめんなさい、だけど」 だけど、ねぇ、お願いだから、 「無駄、だなんていわないで」 きっと私が注意しても、彼らはまた違う場所で吸うだろう。今すぐやめるとも限らない。ひと悶着起きるかもしれない。無駄、なのかもしれない、でも。 「否定しないで」 他の誰に言われても我慢できる。それが専門家とそうでない人間との違いなのだ、と思えるから。でも、 「シンが、否定しないで」 顔をあげる。 なんだか、彼の方が泣きそうな顔をしていた。 「わたし、は」 すれ違う人の視線が、痛い。どんな風に見えるんだろう? 喧嘩したカップル? ああ、そんなにかっこいいものじゃない。 「私は、常識とかモラルとかルールとか倫理とかそういうものが通用しない人間に対して、それが存在することを認識させてある種の強制性をもって適用させるのが法律だと、思っているの」 「……うん」 彼は小さく頷いた。ここまで言えばきっと十分だろう。彼は聡い人間だから、きっともうわかっているだろう。でも、とまらない。 「私は、そんな人間にわかってもらいたくて弁護士になったの。ルールでぎちぎちに縛ることがいいことだとは思わない。でも、ルールで一度ギチギチに縛ってでも、一度綺麗にして、そして法がなくても人間が生きていけるようにしたいの」 「うん」 「私たち専門家と一般人との間にある温度差はわかっているの。だけど、そういうのを縮めたいの。もちろん、これだけが理由なわけじゃないけど、だから私は、弁護士になったの」 「うん」 「だから」 また涙がわいてきて、あわてて目をこすった。 「だから、お願いだから無駄だなんていわないで、否定しないで。わたしの、」 そうこれは私の、 「生き方を否定しないで」 私の生き方だから。目標だから、お願いだから、これを否定しないで、とりあげないで。たとえ私の身を案じてくれているのだとしても、お願いだから無駄だなんていわないで。 「悪を憎み、不正を退け、人間を愛するが故に、法は存在するのよ」 たとえどんなに小さなことでも、私には見過ごせない問題なのだ。 「私は、」 「ごめん」 うつむいた私の頭を彼は撫でた。 「ごめん、言い方が、悪かった。ごめん。わかってたのに、わかっているつもりだったのに」 頭の上にある彼の手の感触にもう一度泣きそうになって、私はきつく目を閉じた。 「ごめん、茗ちゃん」 顔をあげる。 首を横に振った。 悪いのは彼じゃない。彼が心配してくれていることはとてもうれしい。それはわかっている。 そういいたくて口を開きかける。でも彼が本当にすまなさそうな顔をしているから何もいえなかった。 「ごめんね」 ただ黙って首を横に振る。 「ごめんなさい」 「ごめん」 彼はもう一度呟くと、私の頭をもう一度撫でた。 「無駄、とか言ってごめんね?」 「ん」 彼が差し出したティッシュで目元をぬぐう。 それを見届けると、彼は軽く私の頭を叩いた。 思わず顔をあげる。 そこにはいつもの顔で笑う彼がいた。 「茗ちゃんを危ない目にあわせるわけにはいかないから」 そういうと彼は相変わらずタバコを吸っている青年たちを見る。にやにや笑いながらこっちを見ている。ふと、自分の行動が恥ずかしくなって、もう一度私はうつむいた。 「俺に任せときな」 その妙に自信満々な声に、あわてて顔をあげる。ものすごく、不吉な予感がした。 「シン? いいから、行こう?」 人に余計なことに首を突っ込むなといいながら自分は余計なことに首をつっこむのが大好きな、私の探偵さんは、聞く耳を持たず彼らをみてにやりと笑う。 「俺がバカヤローと言ってやる」 シン? 私が言いたいことわかっていた?? 「穏便にすませるために法律がある面もお願いだから忘れないで」
バカヤローと言ってやる |