待ち合わせに遅刻した。驚くべきことに、1時間13分の遅刻だ。 その間に着信履歴は彼女からの番号でいっぱいになり、最後に一通だけメールが来た。 「駅前の喫茶店にいるから、来ないなら連絡しなさい」 来ないなら連絡しなさいって! 別に仕事をしていたわけではない。それだったら彼女は、呆れたと一言呟いて終わりにしてくれるだろう。 だが、今日は違うんだ。今日は寝坊したんだ、寝坊!! 彼女からの何度もあったコールに気づかなかったのは、マナーモードにしていたから。しかも、バイブまで切って。自力で目覚めることが出来てよかった。危なかった。いや、もう遅刻なことにはかわりないんだけど。 喫茶店に慌てて飛び込んだ俺を迎えたのは、彼女のどーでもよさそうなものを見つめる瞳で、きびすを返して逃げたくなった。 怒らせた。また怒らせた。なんでいつもこうなんだろう。 「茗ちゃん……、ごめん」 彼女はふぅっとため息を一つついてみせる。 「ごめんですんだら、民訴も弁護士もいらないのよ?」 空になって、氷も溶けたグラスをストローでかき混ぜながら彼女は続ける。 「債務不履行の種類、あなたならあげられるわよね?」 「……履行不能、不完全履行……」 「もう一つ。知らないとは言わせないわよ?」 「…………履行遅滞」 「ええ、そうね。わかってるじゃない」 グラスを見つめながら彼女は言う。 「あなたは私と13時にここで待ち合わせていたわね。それは債務よ。で、13時をもう……1時間20分も過ぎている。確定期限付の債務はそれが過ぎた段階で当然に遅滞となるし、私はあなたに何度も電話した。催告、ね。いずれにしても、あなたが履行遅滞に陥ったということは紛れもない事実よね。そうでしょ? 私の探偵さん」 俺は小さく頷く。彼女は軽く口元を緩めてこちらを見てきた。 「もっとも、債務者の責めに帰すべき事由ではないときはこの限りではないけど。いいわけしてみる?」 「……寝坊しました」 彼女は緩めていた口元をまた、きつくとじた。 「弁解の余地はないのね」 そういってストローを指で弾く。 「……おっしゃるとおりで」 「ならば」 彼女は揺れるストローを見つめたまま呟く。 「私は貴方に、履行遅滞に基づく損害賠償請求をします」 そして、こちらをじっと見る。 「それとも、先々週、私が約束をドタキャンにしたことと相殺する?」 俺は彼女をしばらく見つめてから、ゆっくりと首を横に振った。 「相殺しても、仕事で約束をすっぽかした彼女と、寝坊で遅刻した彼氏とだったら、彼氏の部分の債務は多少残るよ」 彼女はにっこり綺麗に微笑んだ。 「そ、なら行きましょう」 そういって立ち上がる。俺は頷いて、ひとまず彼女が飲んだアイスコーヒー二杯分の代金を支払った。 「夕飯、奢りますよ」 「あら、ありがとう」 代金を支払い終えた俺に、彼女はくすくす笑いながらそういい、自然に腕を組んだ。 「まぁ、思うのはね」 階段を下りながら彼女は小さく呟いた。 「とりあえず慎吾に何もなかったならいいの。連絡がないから、心配した」 小さく小さく彼女が呟いて、俺は少し微笑んだ。 ああ、どんなに冷たいことを言っても彼女は、彼女の内面は、ちゃんと心配してくれていたのだと、好きで居てくれるのだと、そう思うと小さく微笑まずにはいられなかった。 「じゃぁ、心配料も請求してくれていいよ」 小さく耳元で囁いて、誰も居ないのをいいことに軽く頬に口付けて。 彼女はいつもの視線で俺を見て、唇だけで呆れたと呟いた。 そんな彼女が小さく微笑んでいるのを知っているのは、俺だけだ。
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