「はい」
『こんにちは、突然すみません。一海の円です』
「ああ、女王。どうしました?」
『……。いつも思うのですが、貴方は本当にお坊ちゃまのお父様ですか? まったく似ていないと思うのですが。私のことを面と向かって女王なんて呼ぶのは貴方ぐらいです』
「面と向かってはいませんよ、電話ですから」
『……そういう人の揚げ足を取るところは同じですね』
「親子ですから。それで、どうしました? 女王じきじきにわたしに電話をかけてくるなんて珍しい」
『ええ、実は今回、巽の宗主にお願い事がありまして。今日の放課後、お宅のお坊ちゃまを貸し出ししてもらえません?』

 *

「榊原君榊原君榊原君一緒に帰ろう」
「嫌です」
 帰りのSHRが終わった途端、教室の端っこから反対の端っこまで走ってきた西園寺杏子に、榊原龍一はただ一言切り替えした。
「何で何で何で」
「人間の行動に理由は必要ないというのが持論なんですが。大体、西園寺さんとでは家の方向が違うじゃないですか」
「うん、だから駅まで。それで、一緒に駅で珈琲を飲もうよ」
「……」
 龍一はため息をつくと、目の前で我関せずと片づけをしている巽翔を睨んだ。だから、助けろ。
『おお、モテモテだなぁ、龍一』
 そんな翔の頭の上では、学校にいついている幽霊のちいちゃんが嗤っていた。だから、助けろってば。
 まとわりついてくる杏子の話を適当に聞き流しながら、どうしようかと思案していると、
「榊原」
 突然、翔が彼の名前を呼んで、持っていたケータイを差だした。
「何……」
 それを大人しくうけとって、何〜? と覗き込んでこようとする杏子から交わしながら、そのメールの文面を読み取る。読み終わるとケータイを翔に返し、窓から校門の方を見下ろした。
「ねぇねぇ、どうしたの、榊原君〜」
「すみませんが西園寺さん、僕は用事が出来たんで一人で帰ってください」
 それだけいうと、鞄をそのままに教室から飛び出した。
「ええ、ちょっと榊原君〜」
 その背に言葉を投げかけていた杏子は、龍一が振り向きもしないのを見ると、
「あんたそんなに人の邪魔して楽しい? なんでいつもそうやって、キョウちゃんと榊原君がラブラブするの邪魔するの?」
 露骨に冷たい目で翔をみた。
「いや、別に、邪魔をしているつもりはないな」
 落ち着いた動作で、龍一の分も鞄を持上げると、
「それに、きっと邪魔なのは君のほうだ」
 それだけいって教室を後にした。
「何よ何よ何よ、キョウちゃんだけ仲間外れにして。マジ感じ悪いー」

 *

 from:巽祥太郎
 title:
 object:
 突然だが、お前の学校の音楽室での幽霊騒動について、調律事務所が動くことになったらしい。姫さんが行くらしいが、女王自ら手助けの要求があったんで、協力しておくように。くれぐれも、姫さんの足を引っ張らないようにな

 *

「それで、またあたしにあの学校に行けっていうの?」
 渡された資料を見ながら、大道寺沙耶は眉をひそめた。
「そ。だって私は別件はいってるし、あんたの方があの学校について知っていていいでしょ?」
 一海円はペンをくるくると回しながら、そう言った。
「前も言ったと思うけど、あたしはあの学校には行きたくないの。知ってるでしょう?」
「前も聞いたわね。でも、いいじゃない別に。今回は前回の失敗も踏まえて、おぼっちゃまに協力してもらえるように言っておいたし」
「だけど」
「……まだ怖い?」
 ぴた、とペンを止めて、円は正面から沙耶を見た。時々、こうやって真剣な顔をする。
「学校に行くことは、まだ怖い?」
「……」
 それに沙耶は弱い。真剣な顔をする円には、すべてを読まれているようで昔から沙耶は弱い。
「……怖いわけじゃないけどでも、行きたくない。だって、」
 事務所には他に誰も居なかった。だから、沙耶は普段なら飲み込むその言葉の続きを吐き出した。本当のことを全ていえるのは、きっと榊原龍一でも、堂本賢治でもなく、この姉のように慕っている一海円だけなのだと、彼女自身は感じていた。どうせ調子に乗るから言わないけど。
「だって嫌だもの。今はもう、昔ほど人が嫌いなわけでも怖いわけでもないけど、でも、あのころのあたしは嫌いだった。大嫌いだった。人のことを奇異な目で見て、変な渾名つけて陰口をたたいて、いじめめいたことはするくせに、こちらが反撃しようとすると途端に姿を隠して、自分を正当化して、あたしを恐れる。あのころのあたしは、そこに悪意しか読み取れなかった。今は、そこにあるのが悪意だけではないことを理解してはいるけど、あのころのあたしに、そんな余裕は無かった。自分と……、ケンのことで精一杯だったから。今は違っていても、昔の記憶は消えてない。あの場所に行くとそれを思い出すから、だから」
「……」
 円は何も答えない。
「だから、……行きたくない」
「……」
 円は何も言わない。沈黙に責められている気がして、沙耶は顔を床に向けた。  円の赤いピンヒールが見えて、その足が組まれなおされるのも見えた。
「私はね、沙耶がどうしても行きたくないっていうなら無理強いをするつもりはない。……この間ので懲りたしね」
 円は髪の毛をかきあげて、息を吐いた。
「こっくりさんに憑かれそうになった上に倒れた、って清澄から電話をもらったときは、本当に心臓が止まるかと思ったしね。あんたは昔からどっか甘いところがあるから。今回は補佐にお坊ちゃまがついてるけどそれでも、あんたが行きたくないならいいよ。でも」
 円が言葉を切る。沙耶はゆっくりと顔をあげた。
 一海円は普段浮かべる冷笑やおどけた笑みではなく、ゆっくりと慈愛に満ちた笑みを浮かべた。

「沙耶はそれでいい?」

 ああ、ずるい。本気で沙耶はそう思った。
 それでいいか?
 いいわけがない。大道寺沙耶が逃げることを自分に赦すわけがない。
 それを知っていて、言っているのだ。それでいいのか、と。
「……ずるい」
 一言だけ呟くと、円はいつもの笑みを浮かべた。
「交渉の手段よ」
「そんなこと言って、あたしが行かないわけ、いかないじゃない」
「そうね、あんたは責任感だけはあるしね。……でも、行きたくないならやめてもいいっていうのも私の本音。心配だっていうのも本音。どうしたい?」
 くるり、とペンを回転させて沙耶に向ける。
「しょうがないから、行ってあげる。翔君もいるんだしね」
 沙耶はそのペン先を見つめて、そう微笑んだ。

 *

 龍一が職員室まで行ったとき、丁度沙耶がでてくるところだった。
「沙耶!」
 駆け寄ると、見慣れないスーツ姿の沙耶は一瞬だけ驚いた顔をした。
「こんにちは」
「こんにちは、ってそうじゃなくて」
「翔君に聞いたの?」
「うん」
 そう、と沙耶は頷いた。視線だけがせわしなく動いている。落ち着きが無い。
「沙耶?」
「……やっぱり、苦手ね。この空気」
 両手で自分の体を抱くようにして、沙耶は苦笑した。
「でも、ま、逃げるわけにはいかないしね」
「?」

『沙耶のねーちゃん!!』
 声の方をみると、二人分の鞄をもってゆっくりと歩いてくる翔の前を、猛スピードで飛んでちぃちゃんがやってきた。
「久しぶり」
『久しぶりーー、本当に来てくれたんだ』
「ついでよ、ついで」
 嬉しそうにあたりをとぶちぃちゃんを眩しそうに見ながら沙耶は笑う。
 また、会いに来ると約束したのはいつだったか。随分たってしまったけれども、学生時代から、学校内での彼女の数少ない味方だった幽霊はそこにいた。それがいいことなのか悪いことなのか、沙耶に少し計りかねたが。
「こんにちは、沙耶さん」
 沙耶達のところまでやってきた翔が微笑む。
「こんにちは。円姉じゃなくて悪かったわね」
「いいえ」
 龍一に龍一の分の鞄を渡しながら翔は首を横に振った。
「早速で悪いけれども、案内してもらえるかしら? 音楽室の場所とか、もうよく覚えてなくって」
 そういって沙耶は肩をすくめる。そして、思い出したかのように自分の鞄から名刺入れをとりだし、
「はい」
 二人に渡した。 「今日は、調律師っていうことになってるから。勿論、いっつも調律師ではあるけれども、今回は本当にピアノの、ね」
 その符号を楽しそうに笑っていた円のことを思い出しながら、沙耶はそう言った。

「とりあえず、音楽室なんですけど」
 翔がそう言いながら歩き出したときに、
「榊原君榊原君榊原君!!」
 西園寺杏子が階段から降りて、走ってきた。
 龍一は嘆息した。すっかり、忘れていた。
「一緒に帰ろうっていったじゃんー」
「いや、だから嫌だって……。それに、用事が出来たって……」
 そういって、沙耶をみる。杏子がその視線を追って、沙耶をみて、
「誰、この人」
 実に身もふたも無い問いかけをした。沙耶はにっこりと営業用の微笑を浮かべ、
「大道寺沙耶、ピアノの調律師です。こちらのピアノの様子がおかしいって聞いて調べに来ました」
「ああ、そういえば聞いた聞いた。なんか弾いても音がでないとか、近づくと具合がわるくなるとか、なんとか。幽霊の仕業だとか、誰かいってたけど?」
「まさか」
「でも、それで、貴女、どういう関係なの? 榊原君と」
「実はあたし、ここのOGで榊原くんと巽くんとはその関係で知り合ったんです」
「ふーん」
 杏子は相槌をうち、沙耶を上から下まで眺める。その視線にも沙耶は営業用の微笑を崩さなかった。
 さすがだ、と翔は内心舌を巻いていた。一海円の仕事での化けっぷりも凄いが、同じぐらいに沙耶の化け方も凄いと思っている。もっとも、沙耶の場合は人に危害を加えない、加えられないようにするために学習したものだろうが。
「と、言うわけで西園寺さん僕は今日は」
 杏子から距離をおきながら、いいかける龍一に、
「貴方は帰りなさい」
「君は帰れ」
 無慈悲にも沙耶と翔が告げた。
「え……」
 味方に裏切られた、という顔をする龍一を手招きすると、杏子には聞こえないような小さな声で
「憑かれやすい龍一に一緒にいられたらやりにくいのよ」
「そうそう、万が一憑かれたら仕事が増えるだけだしな」
「悪いけど、今日のあたしは一刻も早く仕事を終わらせて帰りたいの。龍一の相手まで出来ない。本当悪いけど、可愛い彼女と帰ったら?」
 最後の一言には、妙な棘があった。その棘の意味を深く考えることも出来ずに、龍一は
「そんな、西園寺さんと一緒に帰れだなんて、そんな……鬼か、あんたらは!」
「鬼でいいわよ」
 にべもなく沙耶は言うと、杏子に向かって
「それでは」
 営業用の微笑を浮かべてままいい、階段に向かう。
 その後をついていきながら、翔は
「ま、がんば」
 すれ違いざまに、龍一の耳元で呟いた。
「鬼」
 龍一の返した一言に苦笑し、足早に沙耶の隣へ並ぶ。
 つきささる龍一の視線を感じながら、何故だか不愉快そうな顔をしている沙耶にも翔は苦笑を浮かべた。

 *

 とん、とん、とん、とん、
 赤く塗られた長い爪が、机の上で上下する。
 とん、とん、とん、とん、
「……何してるんだ、お前は」
 頬杖をついて、窓を見ながらただ、机を指で叩く動作を繰り返す円に、一海直純は告げた。
「あ、おかえり」
 顔だけそちらに向けて言葉を返す。外から帰っていた直純と、その助手としてついていった佐野清澄は、手をとめない円をみて苦笑した。
 とん、とん、とん、とん、
「だから、何をしてるんだ」
「ん〜」
 手を止めて、今の動作で剥げかげたエナメルを見つめながら円は、自嘲気味に答えた。
「私ってば、どうしても心配性みたい。うちのお姫様は大丈夫かしら?」

 *

「西園寺さんのことなら、気にしなくてもいいと思いますよ」
「は?」
 自分の後ろを歩いていた翔の言葉に、沙耶は立ち止まって彼を見た。
「っていうか、誰、西園寺さんって」
「だから、さっきの……」
「ああ、あの女の子ね」
 もう一度歩き出す。
 とん、とん、
 階段を上りながら。
「あれ、違ったんですか?」
「何が?」
「苛立ちの原因」
「違う……とはいいきれないけどね。確かにちょっと、なんか嫌だったし。あ、龍一には内緒よ」
 とん、とん、
「苛立っているのは、あたしがここにいること。学校になんて居る自分。……やっぱり嫌い。あとね、それから」
 視線だけを翔に向ける。
「さっきのあの女の子に、やっぱりあたしは嫉妬している」
「……それは、どういう意味ですか? 榊原関係で、というわけではないのでしょう?」
「青春を謳歌していることに、よ。それと、嫌悪感も感じてるかな。……あたしに嫌がらせしていた子に、似ているから」
 それだけいうと、沙耶は振り返った。
「もういいけどね。で、5階のどっち側?」

 *

「……」
 榊原龍一はものすごく不愉快だった。それを隠そうとは思っていなかった。隠していないのに、西園寺杏子は察してもくれなかった。それが龍一を、更に不愉快にさせていた。
「だからね、キョウちゃんは」
 なんだか一人で喋る杏子を無視しながら、龍一は歩く。
『大変だなぁ、お前も』
 頭上で言ってくるちぃちゃんを睨みつけた。
 それから、杏子をとめられる唯一の存在、彼女の幼馴染海藤こずもの不在にも腹を立てていた。大会だかなんだか知らないが、こんなのを野放しにするな。
 そして、二人であっさりと自分を追い払った沙耶と翔に対して恨みと、それから翔に対して羨望を抱いていた。自分は沙耶に何かあっても何も出来ない。ただ、見えるだけに過ぎないのだから。
 そう考えて、今度は自分に対して苛立ちを感じた。
 昇降口までたどり着いてしまい、やけくそになりながら靴を取り出し、履き替えようとする。
『むぅ、もう帰るのか。残念だなぁ』
 なんていうちぃちゃんをもう一度睨みつけ、ため息をついて下駄箱の扉を閉めて、

 顔を上げた。

 ピアノの音。今の状況下からして、このピアノを弾いているのはきっと、
『沙耶のねーちゃんだな』
 ちぃちゃんが呟いた。
『しかもこれは多分、自分で弾いているんじゃない。霊に体を貸している、な』
「っ」
 ちぃちゃんを睨む。
『そんな顔を俺に向けても無駄だぞ』
 呆れたように言葉を返された。
 霊に体を貸している? もしも、その霊が自主的に出て行かなかったらどうするつもりなのだろうか? 何を考えているのか?
『まったく、相変わらず沙耶のねーちゃんは甘いね』
 ちぃちゃんの言葉に同意する。
 自分だって、対外甘いくせに龍一は、心の中で沙耶に文句をいう。何かあったら、どうするつもりなんだ。馬鹿。
「榊原君ー、何してるのー」
 杏子の声が癇に障る。
「やっぱり、俺はまだ帰れない」
 杏子に向かってそれだけ言うと、走りだした。

 *

 こんこん、
 第二音楽室と書かれたドアをノックして、扉を開け放ち、一歩踏み込む。
「こんにちは」
 大道寺沙耶は微笑みながら、ピアノの主を見つめた。
「ちょっと、お話いいかしら?」
 ぱたん、
 翔が後ろ手でドアを閉め、ついでにカギも閉めた。
「貴女がピアノを独占しているから、この学校の生徒さん達が困っているらしいの。明渡してくれないかしら?」
 ピアノの前に座った、セーラー服の少女は何も言わない。
「嫌だ? それじゃぁ、提案。貴女の未練を教えてくれない?」
 沙耶が少女に近づいてく。翔はドアに寄りかかるようにして、それを見ていた。
 こうやって対象に話し掛けて、自主的に還すようにする。それが一海の方針で、だからこそ巽とは相容れないところがある。それでも、翔は沙耶のこのやり方には関心していた。この祓いかたに関しては沙耶より優れている人間はきっといないだろう。一海の女王でさえも。
 ただ、それを自分で実践しようとも、それを推奨しようとも思っていなかった。なぜならば、
「そう、貴女の未練はそれなのね。じゃぁ、あたしの体を貸してあげる」
 彼女のやり方はとても綱渡りだから。自分の体を簡単に霊に貸したりする。それは、彼女自身についている龍の存在が、いざとなったらその霊を喰いつくすことを知っているからことできること。
 でも、一度龍が活性化してしまえば、それを鎮めるのに沙耶自身の記憶を必要とする。龍は彼女の記憶を喰らうことで大人しくしている。
 それを知っていて、それでもなおそのやり方をやる沙耶のことを、翔は好きではなかった。嫌いにもなれないが。
 それをやって、悲しむ人間がいるのだから、やめればいいとも思っていた。たかが霊にそこまでの価値があるのか、と問いかけたい。
「翔君」
「サポートですね」
「そう。何も無いと思うけど、万が一、コレが」
 そうして、龍の話をするときによくやる癖を彼女はする。肩を強く握る。
「暴れだしたら、お願い」
「そうならないことを心底祈りますよ、僕は」

 *

 2週間程前のことである。
 1年生の女子が、交通事故で亡くなった。それは3年生である翔や龍一も知っていた。朝会が開かれ、その子のために黙祷を捧げたからだ。顔も知らない人間にかたちだけの黙祷を捧げることの方がよっぽど無礼だと翔は思っていたが。
 その女の子はとても責任感の強い子だった。
 彼女の亡くなった3日後に、彼女の所属していた音楽部は大会があった。彼女はピアノを弾くことになっていた。

 結果は、良いものではなかった。
 彼女はそれを見ていた。自分を責めた。

 せめて、きちんとピアノを弾きたかった。

 *

 階段を上る、
 上る、
 上る、
 上って、

 上って途中で気が付いた。
 3階の踊り場で、龍一は足を止めた。
 今から自分が音楽室に行って、一体何ができるのだろうか? 足手まといにしかならないのではないか? だって、沙耶には巽の跡取息子がついてるのだし、自分が行く意味があるのだろうか。

 龍一はその場に立ち尽くした。

 ピアノの音が響いていた。

 *

 翔はいつでも動けるようにしながらも、扉に寄りかかったまま沙耶を見ていた。
 ゆったりとピアノを弾くのは、沙耶であって沙耶でなかった。
 この場に龍一がいないことに感謝した。こんな光景をみて、彼が黙っているはずが無い。そもそも、霊に体を貸すなんてことを許さないだろう。自分は霊に同情して、ほいほい憑かれて来るくせに。

 白い手が、白い鍵盤の上を踊っていた。
 その手が、ゆっくりと、止まった。

 *

 龍一は大人しく、階段を降りはじめた。
 何も出来ない自分が憎らしかった。

 曲が終わりに近づいていく。

 それでも、このまま帰るつもりは無かった。せめて、事後処理だけでも手伝いたかった。せめて、彼女の安全を確認してから帰りたかった。
 昇降口にはもう、西園寺杏子の姿がないことを確認して、下駄箱に寄りかかって階段を見つめた。

 曲が終わった。

 *

 翔はドアから背を離していた。

「気は済んだ?」
「……いいえ」
「いいえ?」
「私はもっとピアノが弾きたい。もっと、もっと、もっと、生きていたい」
「でも、貴女は死んでいるわ。そして、これはあたしの体よ」
「知らない知らない知らない。私は、」
「譲れるものならば、この体を貴女に譲ってあげたいわ。でも、だめなの。ごめんなさいね。こんな、時限爆弾付の体、誰かに譲るなんてそんなこと……。貴女も、気づいているのでしょう?」
「……っ」
「はやくここから出て行かないと、あたしの龍が貴女を喰らうわ。そんなの、嫌でしょ?」
「……」
「ごめんなさいね」
 そういって、大道寺沙耶が泣きそうな顔をして微笑んだ。
「……我が儘を言って、ごめんなさい」
「いいえ」
「……ありがとう。本当はわかっていた。だから、満足」

 そして、

 *

「そんなに心配なら、どうして沙耶を行かせたんだ?」
 さっきから仕事に手がつかない従姉に、直純は聞いた。それは質問ではなく、確認だった。
「ずるい質問」
 円は笑う。
「直が私の立場でも行かせたでしょう? いい加減、あの子には断ち切って欲しいのよ。高校生活におけるうだうだしたものとか、そういうもの。それは、あの子自身にしか出来ないことだしね」
 そういって、一海円は寂しそうに微笑んだ。
「結局、私たちには何も出来ないから」
 そして、一度視線を落とし、次に顔を上げたときにはいつもの不敵な笑みを浮かべていた。
「そしてね、言うと調子に乗るから言わないけど、私は沙耶のことをそれなりに買ってるのよ? 与えられた仕事を投げ出す子でも、現実から逃げ出す子でもないわ」

 *

 大道寺沙耶は立ち上がった。
 ピアノのふたを閉め、
「終わりましたね」
 再びドアに寄りかかっている翔に笑いかける。
 そのままそちらに向かって歩き出し、一瞬、視界が歪んだ。
「っ」

「沙耶さん!」

 駆け寄ってきた翔に支えられて、地面に倒れることだけは免れた。
「大丈夫ですか?」
「一応は、ね。ちょっと、騒ぎ出してるけど」
 肩を握る手に力をこめる。
 翔は何も言わなかった。
「ちょっと、待ってて。大人しくさせるから」
 そういった沙耶は泣きそうな顔をしていて、実際に泣いているのではないかと翔は思ったけれども、何も言わなかった。
 今度は、何を忘れるのか? 沙耶も翔も何も言わなかったが、二人で同じことを考えていた。

 ああ、せめて、
「大丈夫」
 翔の手を笑って放し、自分で立ち上がりながらも沙耶は祈った。
 せめて……、

 *

 from:一海円
 title:お願い
 object:
 お坊ちゃまには悪いんだけど、終わったらうちのお姫様を事務所まで送ってきてくれない? なんだか、心配で。あ、私が頼んだことは沙耶には内緒にしてね。

 *

「巽……」
「なんだ、居たのか」
 昇降口まで降りてきた翔は、下駄箱に寄りかかるようにして立っていた龍一をみて呆れたように笑った。
「沙耶は……?」
「今は職員室。挨拶している。一応、調律師だからな」
 そういって笑う。けれども、龍一は笑わなかった。
「体を貸したのか?」
「……ああ」
「それで、」
「君にそれを責める資格は無いはずだ。彼女が自分で選んだことだし、君自身だってやっていることだろう?」
「……」
「文句をいう、程度ならとめないが、責めるのは間違っている。それに、それぐらいで諦める人ではないだろう」
「……そうだな」
「……それから、先に言っておくと、多分彼女はまた何かを忘れたよ」
「そっか……」
 龍一の視界には見慣れた上履きしかない。
 自分には何も出来ない?
 それを黙ってみていた翔は、
「とりあえず、後は任せた」
 それだけ言って、自分の靴をだし始める。
「え?」
 顔をあげる。
「円さんから沙耶さんを事務所まで送るように頼まれてたんだが、君にお願いするよ。そちらの方が適任だろうしね。円さんには僕から連絡しておく」
「でも、」
「邪魔者は、いない方がいいだろ?」
 そういって、巽翔は微笑んだ。龍一はしばらくその微笑をみていたが、やがて同じように笑った。
「わかってるじゃん」
「ああ、分別はあるからな、それぐらいの。じゃぁな」
「ああ」

 *

『もしもし?お坊ちゃま?どうだった?』
「……大丈夫ですよ、一応は」
『……そう、また無茶をしたのね。あの子は。悪いわね、つき合わせて』
「いいえ。それで、沙耶さんなんですが、榊原が送っていきますので」
『龍一君が? ……そう、わかった』
「……」
『せめて、あの子が今回忘れたことが、龍一君との思い出じゃないといいんだけどね』

 *

「……沙耶」
「やだ、まだ居たの?」
 昇降口で待っていた龍一を見て、沙耶は呆れて笑った。
「翔君は?」
「帰った」
「……そう。あの子は? あの女の子」
「さぁ? しったこっちゃない」
「また、そんなこと言って」
 沙耶はくすくすと笑う。
「貴方がそんなこと言うなんて、どんな子なのよ。あの女の子は」
 そう言いながら、沙耶は靴を履き替えようとして、
「沙耶」
 龍一がいつもよりも鋭く名前を呼んだ。振り返った沙耶の瞳が一瞬怯えたように揺らいだ。
 それだけで十分だった。
「……送ってくから」
「あら、ありがとう」
 無茶をするな、といえなかった。確かに自分にはその資格が無いのかもしれないと思った。あんな怯えたような目をされては、そんなこといえなかった。
 でも、今は、隣に並んで歩きながら、今はこのままでいいと、せめてこの状態が続くようにと、
 祈った。