西園寺杏子は、同じクラスの榊原龍一が好きである。そして、そのことはクラスメイトにとって周知の事実である。凄くわかりやすいから。
 だから、
「榊原君」
 名前を呼ばれて露骨に不愉快そうな顔をした龍一と、とても嬉しそうな杏子をみても誰も何も言わなかった。
「なんですか、西園寺さん」
 先ほどまで龍一と話していた、巽翔はそっぽを向いて他人のふりをした。逃げやがったな、と心の中で龍一は毒づいた。
「今日の放課後空いる?」
「いいえ」
 即答だった。
「定期テスト1週間前に放課後空いているような酔狂な人間がいるとは思えませんし、仮にいたとしても僕はそんな酔狂な人間ではありません」
 人と状況によって一人称を使い分ける。あえて自分を“俺”ではなく”僕”と呼ぶことで壁を作ってみせる。そんなこと、気付く人間だったら最初からこんな苦労していない。
「うん、だから、勉強教えて」
「誰かに教えられるほど頭は良くないですよ。それなら、海藤さんに聞いたほうがいいですよ。クラストップなんですから」
 そういって、彼女の幼馴染の名前をあげる。
「え〜、でもね、キョウちゃんは榊原君に教えてもらいたいの」
 一人称が自分の名前だという人間は好きではない。それが渾名だったらなおさらだ。
 喉元に込みあがってくる不快感をぐっと押し込め、
「何故?」
 端的にそれだけ問い掛けた。
「だって、キョウちゃんは榊原君が好きだから」
 なるほど。それは大きな理由ですね、西園寺さん。でしたら、僕は貴女が嫌いだから勉強を教えたくなんてないんですけど。
 脳内でそんな言葉が浮かんだが、結局舌先に乗っけることはなかった。変なところで彼は気を使う。
「だからね、榊原君に勉強を教えてもらいたいの」
 頭をフル回転させて断りの文句を探す。ただ一言、嫌だといっただけではこの女は引き下がらない。それはよぉく、わかっていた。
 そんな一銭の得にもならないことを? ……駄目だ、だったらジュース奢るからとか言われそう。
 僕の成績が下がると困るんですが。……行けそうな気もするが、勉強してるんだから大丈夫だよとかいわれそうだし。
 他人のふりをして本を読んでいる目の前の翔の頭を睨む。手助けしてくれ、頼むから。
「杏子!」
 救世主は教室の後ろのドアから現われた。職員室に行っていたHR委員で西園寺杏子の幼馴染の海藤こずもが戻ってきたからだ。
「あんたまた我が儘言って」
「我が儘じゃないよー。ただ、榊原君に勉強教えてもらおうと思って」
「迷惑に決まってるでしょう。榊原は優しいから断れないだけで内心では不愉快に思ってるに決まってるんだから」
「えー、そうなの?」
「え、えっと」
「そういうこと言っても迷惑がられるだけなの、どうしてあんたはわからないの。嫌われるわよ、そのうち」
 ……そのうち??
「勉強ぐらい自分でどうにかしなさい」
「えー、せめてこずちゃん教えてよ」
「嫌よ。あんたのはわからないんじゃなくてやらないだけでしょう。せめて自分で努力してから教えてっていいなさい。自分で何もしないくせに出来ないなんて泣き喚くのは赤ん坊だけでじゅうぶんだわ」
 とにかく、とこずもは龍一に向き直った。
「悪いわね、榊原。また迷惑かけて」
 龍一は答えないで肩をすくめた。
「えー、キョウちゃん迷惑なんてかけてないよ」
「はいはい、わかったから。あっちに行きましょうか」
 そういって杏子をひきずって自分の席へ連れて行った。
「またあとでね〜、榊原くーん」
 にこやかに手を振る杏子を無視して、龍一は机に倒れこんだ。ストレスで胃に穴があいて死ねるかもしれない、今なら。
「……お疲れ様」
 前を向いたまま翔が言った。その背中にびしっとチョップを一発かますと、
「手伝えや、この野郎」
 小声で怒鳴るという器用な真似をした。
「僕も彼女は苦手なんだ」
「俺もだ!」
「君の好みは年上美人だもんな」
「それはお前じゃないのか?」
「……否定はしないが。しかし君も大変だな」
「まったくだ」
 年上でも美人でも他にも性格的にも西園寺杏子は龍一のストライクゾーンから見事にはずれている。いっそ、すがすがしいぐらいに。恋愛だけじゃなくて、友情の対象からさえも。
「しかし、彼女にきっと悪気はないんだろう」
「だから余計たちが悪いんだよっ!!」
 杏子がこちらを見てくるのを気にして小声で言い争いをしていると、ケータイのバイブ音。龍一は慌ててポケットからそれを取り出し、着信表示を見ると、少し微笑んだ。
「もしもし、沙耶?? ……今? 大丈夫、昼休みだから。……今日? 俺は大丈夫だけど。ちょっとまって」
 そういってケータイから耳を離し、翔をみる。
「沙耶さん?」
「そう。円さんがタルト焼きすぎたから良かったら食べに来ないかって。巽はどうする?」
「愚問だな」
「……そうだな」
 即答に龍一はあきれて笑い、
「もしもし? 沙耶、巽も行くって。うん、そうそう、円さんだから」
「その言い方はないだろう」
「じゃぁ、帰りによるから。また、あとで」
 そういって微笑んだまま電話を切る。
「……君のその態度もなかなかに最悪だよ」
 翔がぼそりと呟いた。視界の隅に、龍一がにこやかに電話していた上に女の名前を出していて、更にその女と自分へは断った放課後の約束をとりつけていることにショックをうけているっぽい杏子をとらえながら。
「いいんだよ」
 龍一は彼女のほうを向かないまま言い切った。


「俺は西園寺さんとは違って、わざとやってるんだから」