二階の窓から鉢植えを、落とす。
 人が通るタイミングを狙って。
 上手い具合にそれはサラリーマン風の男性の頭の上に落ちて行き、男性の身体を通り抜け、地面で割れる。
 男性は鉢植えにすら気づかずに立ち去って行く。
 いつものことながらむっとする。
 もう一度、制服姿の男の子に向けて鉢植えを落とす。
 鉢植えは男子生徒の鼻先、すれすれを通って地面に落ちる。砕け散る。消える。
 それだけならばいつものことだった。
 ただ、男子生徒は鉢植えが目の前を通った瞬間、びっくりしたように立ち止まった。
 窓から身を乗り出してその男子生徒をみる。
 鉢植えが降ってきた場所を探して上をみていた男子生徒と、目があった。
 慌てて顔をひっこめる。
 五秒数えて、もう一度顔を出したときには、男子生徒はもう立ち去ったあとだった。
『みぃつけた』
 気づいてくれる人。

 **

 失敗した、かもしれない。
 下駄箱から上履きを取り出し、スニーカーをしまいながら、榊原龍一は思った。
 幻の鉢植えに驚いて立ち止まってしまったのはともかくとして、そのあと辺りを見回したのは失敗した気がする。
 確実に目があった。
 あの、幽霊と。
「やばい、よなー」
 小さく呟く。
「何が?」
「うわっ!」
 後ろからかけられた声に、慌ててのけぞると級友、巽翔の姿がそこにはあった。
「朝から失礼だな」
 むっとした様子もなく言われる。
「あ、うん、ごめん」
「で、どうした?」
「えっ?」
 声が裏返る。慌てて一つ咳払い。
「いや、なんでもないよ。大丈夫だよ。気にしないで」
 ほら、教室行こうぜ! とか我ながらびっくりするぐらいの白々さでそういうと、翔の背中をおした。

 軽々しく同情するな、と何度も釘をさされた。
 生きている人間を連れて逝きたがるものなのだから、可能な限り知らないふりを決め込め、と教え込まれた。
 それなのに、あっさりと目があってしまった。
 そんなこと、せっかく忠告してくれた大道寺沙耶にバレたら、何て言われるかわかったもんじゃない。
 またなの? っていう少し小馬鹿にした視線が容易に思い浮かぶ。
 そして、同時に、心底心配したような顔を彼女はするだろう。あの顔は見ていて切ないので、出来るだけさせたくない。心配してもらえるのは嬉しいんだけど。
 ばれないように、ばれないように。
 沙耶と同業者の、お祓いを生業としている翔にばれたら、必然的に沙耶にもばれる。それは避けなければ。
 改めて心に誓う。とりあえず、もうあの道は通らないようにしよう。

 **

 暗い部屋の中、白いワンピース姿の少女が立っている。
 小さな背中。

 ほら、ねえ、わたしを見て。見て、見て、見て、見て。
 私と、話をして。私の事を知って。ねえ、ほら。
 皆気づいてくれないの。
 誰も気づいてくれないの。
 私を見て。
 独りは寂しいの、つまらないの。ねえ、ねえ、ねえ。
 ねえ、わたし、可哀想でしょう?

 そうして、少女はこちらを振り返り、笑った。
 助けを求めるように両手を伸ばしてきた。

「っ」
 跳ね起きる。
 見慣れた部屋、自分の部屋。特に変わったものはないし、変わったものもいない。
 なにも、ない。
 ゆっくりと息を吐く。ベッドの上で膝を抱えるようにして座る。
 毎日毎日同じ夢を見る。
 白いワンピースの少女が笑う。
 あの子、だ。あの、幽霊の子だ。
 さすがに一週間同じ夢を見ると、しんどい。
 通らないようにしているのに。
 これは、自分が気にしているから見てしまう夢なのか。それとも、あの子が何かをしているから見てしまっている夢なのか。
 手を伸ばしてケータイをとる。
 3時24分。まだまだ夜中だ。
 もう、これじゃあ眠れない。
 最初の段階で相談すべきだった、のかもしれない。最初に夢を見たときに、相談すべきだったのかもしれない。
 アドレス帳を呼び出す。大道寺沙耶の名を探す。
 さすがにこんな時間に連絡は出来ない。どちらにしろ、今更、連絡できない。それは小さな意地だ。たかが夢なのだし。
 最近毎日やっているように、今日もケータイを閉じた。
 目を閉じると、白いワンピースの少女が笑う。
 慌てて目を開ける。
 相談すべき、なのかもしれない。
 でも出来ない。
 心配をかけたくない。今更相談出来ない。どうしてもっと早く相談しなかったのか、と言われたくない。
 なによりも、これぐらい独りでどうにかしないといけない。じゃないと、いつまでたっても彼女の足をひっぱるばかりだ。
 もう、何度も下した結論を下して、それでも眠れなくて、ただ膝を抱えるようにして、耐えた。

 **

 寝不足でがんがん痛む頭を右手で押さえる。
 日曜日の早朝。夜よりは朝がいいな、という理由。
 龍一は、あの一軒家の前に立っていた。
 話し合いで、どうにかなるかもしれないし。見えるのだから、自分にならどうにかできるだろうし。いつも沙耶がやっているのを見ているし。
 これ以上、夢に悩まされるぐらいなら、直接話した方がいい、に決まっている。
 よしっと気合いを入れる。
 日曜日の早朝は、人通りがない。
 そっと、ドアに手をかける。
 かちゃり、
 鍵は開いていた。
 ふぅ、っと息を吐く。
「おじゃましまーす」
 そうして、一歩踏み出した。
 家の中は、もう何年も人が住んでいないようだった。
 埃っぽい。
 二階だったよな、と思って階段をのぼる。
 と、思ったら熊のぬいぐるみが上から転がってきた。慌てて避ける。
 避けきれなかった右手を通過して、ぬいぐるみは消えた。
 くすくす、と上から笑い声がする。
 やっぱり来なきゃよかった、と少し思う。
 それでも、諦めて足に力を入れた。

 ローマ字でアミ、と書かれた札がかかったドア。
 その前で足をとめる。くすくす、と笑い声が中からする。
 二回ノック。
 それからゆっくりと、ドアを開ける。
『やっと来てくれたのね、おにいちゃん』
 ベッドの端に腰をかけた、白いワンピース姿の少女が笑った。
 それはまぎれも無く、夢の中の少女だった。
 ドアを閉めるかで悩み、一応そのままにしておく。だって、開かなくなったら怖いし。
「こんにちは……」
『おはよう、じゃない?』
 クスクスと笑う。
『アミと遊びにきてくれたんでしょう?』
 そういって手招きされる。
 一瞬悩んで、数歩前に進む。
 ばたんっ、と派手な音を立ててドアがしまる。
 慌ててドアの方に向かおうとするその足を、床からはえた白い手が掴んだ。
『帰っちゃうの? 遊びにきてくれたんじゃないの? アミと遊んでくれるんじゃないの?』
 足が動かない。
『アミと遊んでくれるんでしょう? だから来たんでしょう? 違うの?』
 声が背後から責め立てる。
『ねえ、こっち向いたら?』
 声に仕方なしにふりかえる。
 ベッドの上にいた筈の少女は、龍一の足下に座り込んで微笑んだ。
『ね、何して遊ぶ? 何がしたい?』
 楽しそうに笑う。
「違う……、俺は」
『違うの? 遊びにきたんじゃないの? じゃあ何をしに来たの?』
 白い手が、床からはえる手が、増えていく。
「……助けたかったんだ」
『助けるって何を? 何から? アミはただおにいちゃんと遊んで欲しいだけなのに。それともおにいちゃんも』
 少女はそこで言葉を切って、龍一を睨む。
『アミに遊ぶなって言うの?』
 少女が立ち上がる。
『それなら、もうおにいちゃんなんて要らない』
 ふいっと背を向けられる。
 その瞬間、龍一を押さえつけているだけだった手が、龍一を床に沈めようとする。
「ひっ」
 喉の奥で潰れたような声があがり、両手を振る。
 少女は振り返らない。
 意識がとびそうになる。
 だめだ、ここで気絶なんてしたらきっと、帰って来れなくなる。
 両足の感覚がなくなる。
「違う、俺はっ……」
 何を言おうとしたのかは、自分でもわからなかった。
 ただ、ぎゅっと目を閉じた、その瞬間、ふわり、と鼻腔を何かよく知っている香りがくすぐった。
 それに安心する。
 来てくれたのだ、と。

 **

 声が聞こえる。
 一番最初に戻ったのは、聴覚だった。
 聞き慣れた声が、聞こえる。
 何かを、歌っている。
 少しずつ戻って行く視力。床に顔をつけた状態で、目を開ける。
「……なに、やってんの?」
 思わず出たかすれた声に、あらっと沙耶が微笑んだ。
「おはよう、龍一」
 幽霊の少女を膝の上に乗せ、歌なんて歌っていた沙耶がいう。
『おねーさん、続き!!』
「はいはい」
 少女に微笑みかけ、
「まだ動けないでしょう? そのまま眠っていなさい」
 龍一に告げる。
 そして、微笑んだまま、
「起きたらどうなるか、わかってるわよね?」
 告げられた。
 さっきとはまた違う意味で恐怖を覚えながら、素直に目を閉じる。体が重い。
 沙耶の声が聞こえる。
 歌っているのは子守唄。
 少女の弾んだ声が、合間合間に聞こえる。
 沙耶が歌っているのなんて、初めて聞いたな。そう思って小さく微笑んだ。

「それで、何やってるのよっ」
 次に龍一が目を開けたとき、最初に見たのは驚く程至近距離での大道寺沙耶。彼女は怒鳴るように告げた。
「馬鹿じゃないのっ!? なんでまきこまれてるならちゃんと言わないの!? 翔くんが気づいて教えてくれたからいいけど、間に合わなかったらどうするつもりだったの!? 何考えてるのよっ!」
「ごめんなさい」
 考えるよりも先に謝罪がでてきた。
「ごめん」
 もう一度謝ると沙耶は顔を遠ざけた。
 片手で髪をかきあげる。
「心配させないでよ、ばか」
 ため息。
 結局、こんな展開になってしまった。
 この状況下で彼女の目尻が少しぬれている事に、喜びを感じる自分は不謹慎だ。 それよりも、謝罪の気持ちが強いけれども。
「ごめんなさい」
 もう一度謝り、辺りを見回す。
 少女の姿はもうそこにはなかった。それに安堵する。
 そうして自分がどういう状況なのかを把握し、飛び起きた。
「ごめんっ」
 先ほどとは違う意味で謝る。
 なんでそんな、膝枕?
「別に。大丈夫?」
 動揺している龍一とは対照的に、沙耶は何事もなかったかのように座り直す。
 ふわり、と彼女からよく知っている香りがする。でもいつもと何かが違う。ああ、香水をつけてないんだな、と気づいた。よく見たら化粧もちゃんとしていないようで、日曜の朝早い時間なことを思い出す。
「ごめんなさい」
「……大丈夫?」
 頭を撫でられる。
「ん」
 素直に小さく頷く。
「ほんと、いつも意外と無茶するよね」
 呆れた様に言われて、うつむく。
「あの子は?」
「満足したみたいよ」
 そうして沙耶は立ち上がる。スカートの裾をはたく。
「遊んであげればよかったのよ。彼女が望んでいたのはそれだけ」
「……遊んで」
「でも、それも大変だったでしょう?」
 沙耶は、床に転がっている熊のぬいぐるみを拾い上げる。背を向けられる。
「だからね、やっぱりこういうことはちゃんと専門家を頼りなさい。あの子はただ、遊びたいだけの子だったからよかったけど、もっと悪いものだったら、どうするつもりだったの?」
 淡々と言いながら、熊のぬいぐるみをベッドに座らせる。
「ごめん……」
「でも、」
 龍一に背を向けたまま
「あの子の病気の治療費と、ギャンブルにはまっていた父親のせいで、ここの一家は夜逃げしたの。この家はもうすぐ人手に渡ることになっているの。その前に、助けてあげられてよかったわね」
 そうして、振り返ると、いつものような笑みを浮かべた。何か諦観したような笑い方。
「動ける?」
「うん」
「そう、じゃあ、よかったらどっかで朝ご飯食べよう? あたし、お腹空いちゃった」
 そういって右手を差し出す。
「……うん」
 少しためらって、その手を掴み、立ち上がる。
 沙耶はゆっくりと微笑むと部屋から出て行く。
 龍一は振り替える。そこにはもう、何もいなかった。それに安堵して、彼女の後追った。
「ありがとう、ごめん。ありがとう、助けてくれて」
 さっさと階段を降りて行く沙耶の背中に、小さく呟いた。

up=2010.8.22