私は認めたくなかった。
 そんなこと認めたくなかった。

 そんなとき、彼は現れた。



「先生、あの、娘はっ」
 すがりつくようにして尋ねてくる女性に、一海の名札を付けた医者はうさんくさいぐらいの笑顔を浮かべて告げた。
「大丈夫です。彼女の病気は突発性睡眠時夢幻覚発作。睡眠障害の一種です。日本ではまだ症例は少ないのですが、幸いにもうちの病院にはその権威の先生がいますので」
 大丈夫ですよ、ともう一度笑った。

「誰が権威の先生ですって? 誰が」
 肩まである髪をかき上げ、面倒くさそうにため息をつく女性に、一海の名札を付けた医者はうさんくさいぐらいの笑顔を浮かべて尋ねる。
「What's Up Doc?」
「ドクターはあんたでしょう、啓之」
「医師免許は持ってるけど、おれヤブ医者なんで」
「自分で言ってりゃ世話ないわね」
 もう一度ため息。
「しかし、あんたは、よくまあ次から次へと。ええっと、なんて言ったんだっけ? 病名」
「突発性入眠時幻覚症候群。あれ? 違ったっけなー?」
「覚えときなさいよ、でまかせの病名ぐらい、啓之」
「うーん、この辺がおれヤブなんですよ、円さん」
 そういってやはりうさんくさいぐらいの笑顔を浮かべてみせる。
 一海円はそんな一海啓之をみて肩を竦めた。
「ヤブっていうか、確実に一海の血だよな。そのいい加減さは」
 それまで黙って成り行きを見守っていた一海直純が口を挟む。
「本家のあんたよりは色濃く受け継いでるわよね」
「俺の持ち味は堅実さなんでね」
「自分で言うか」
 同世代以下の憧れ、本家の二人を見ながら啓之は微笑む。

 一海分家の出の彼は、見えるものの、その力は弱く、出来損ないなど親に詰られていた。
 彼が高校2年生のとき、一海次期宗主、一海円が彼の前に訪れるまでは。
「啓之、あんた、理系よね?」
 わざわざ離れまでやってきた円は、啓之をみるなりそう尋ねた。
「はい……?」
「よし、決定」
 影で一海の女王と呼ばれている一海円は、満足そうに告げた。
「あんた、医者になりなさい」
「はい?」
「適材適所。霊的なことがわかる人間が医者になるのは私の計画では必要なの。人と人外のものの共存できる社会には。で、さすがに私や直が医者になるわけにはいかないからどうしようかなー、と思ってたんだけど」
 そういって、女王は同世代以下の憧れの、美しい笑みを浮かべた。
「啓之が理系だって聞いて、これはちょうどいいや、と思って。啓之は適任。今からなら進路選択間に合うでしょう、よろしく」
 そういうと返事も聞かずに立ち上がる円に、慌てて声をかける。
「あ、あの!」
「なに?」
「おれ……、わたしは見えるだけで何もできませんけど、それでもいいんですか?」
「見えれば十分よ。医学の世界との橋渡しになってもらいたいの。啓之がやらなければいけないのは、見えるとか見えないとか祓えるとか祓えないとか、そういうくだらないことを気にするんじゃなくて、立派なお医者様になること。わかったわね?」
 小首を傾げる。
「……。はい、がんばります」
 一瞬悩んで、力強く言い切ると、円は優しく笑った。

 あの日以来、出来損ないだと弾かれていた自分に、やるべきことを与えてくれた円と、それから直純には感謝していた。
 だから、あれから真剣に勉強してトップクラスの大学に入って医師になった。普段は医師として働き、たまに運び込まれる、霊がらみの患者を見つけると一海に知らせるのが彼の仕事だ。
「あとは、よろしくお願いします」
 頭をさげて頼むと、円は少し面食らったような顔をした。それから、いつものように笑うと、
「任せなさい」
 告げた。
 後ろで直純も微笑んだ。


「とか、安請け合いしたけれども、めんどくさ〜」
 カモフラージュのための白衣に身を包み、廊下を歩きながら小さく円が呟く。
「仕事」
「わかってるけど」
 問題の部屋にたどり着き、ゆっくりとドアを開ける。円が先に部屋の中に入り、直純が後ろ手でドアをしめる。
「夢魔」
「ナイトメア」
 二人同時に呟いた。
「わかってたんだけど、めんどー」
「円!」



「どうして、ここに?」
 わたしは彼に尋ねた。彼はいつもと同じ少し哀しそうな笑みを浮かべた。
「だって、あなたは」
「会いに来た」
 彼は簡潔にそれだけを言う。
「わたしに?」
 小首を傾げて尋ねる。
「ああ」
 彼は頷く。わたしは戸惑い、彼をみつめる。
 それから、彼にだけ向ける笑みを浮かべ、言った。
「ありがとう」



「いるんでしょ?」
 円は部屋の空間へ呼びかける。
 くすくすと、嗤い声が響く。そして、声は言う。
「僕を祓いに来た、祓い屋かな。君たちは」
 直純が小さく頷く。
「これがうちの流儀なんで名乗ってあげる。私は一海円。こっちは従弟の直純」
「ああ、一海の人間か」
 いいえ、と円は首を横に振ると、高らかに宣言した。
「調律事務所の人間よ」
「調律事務所、知らないなー」
 間髪おかずに、声が馬鹿にしたように告げる。
「ええ、まあ、一週間前に出来たばっかりですけどねっ!」
 その露骨な挑発に気にしていたことを言われて円が舌打ちまじりに吐き捨てた。
「うちの流儀は話し合い。強制的に祓うことはしない。もし、あなたがその娘から離れてくれるならば、こちらとしては手出ししない。どう?」
 嗤い声の主はいう。男とも女とも老人とも子どもともとれる不思議な声で。
「そんなこと、聞くと思ってるの?」
 円は天井を仰いだ。
「言ってみたかっただけだってば」
「やっぱり、無理があるんじゃないか?」
 横でぼそっと告げる直純を睨んだ。



「ずっと、ここにいてくれるの?」
 わたしが尋ねると彼は微笑む。
「置いていけるわけがないだろう、君を」
 何て言えばいいのかわからなかった。何を言うべきなのかわからなかった。わたしはただ嬉しくて、彼に抱きついた。
「ありがとう」
 何度も何度もそういうと、彼はわたしの頭を撫でた。



 声は言う。
「何が夢で何が現実か、狭間などどこにある? これが全て夢でないと、どうして言い切れる?」
 円は真顔で言う。
「難しいことは難しいから難しいし難しいので考えないことにしているの」
 その自信満々な言葉に、隣で直純が呆れたような顔をした。
「いずれにしても、わたしがここにいる事実は変わらないでしょ? それ以外に何がある?」



 夢を見ているみたいだった。だから、わたしは彼にそういった。彼は首を横に振った。
「そんなことないよ」
「わかってる。でも、幸せすぎて不安になるわ」
 いつもと同じようにソファーに二人で腰掛ける。彼が入れたとびっきりのコーヒーとわたしが焼いたクッキー。
 それを食べながらテレビで映画をみる。それが、いつものわたし達。ソファーに上に膝を抱えて座る。
「寂しかった」
 わたしは言った。
「何が?」
 彼が尋ねる。
「あなたが……」
 わたしは言いかけて小首を傾げる。
「なんだったかしら?」
 眉根を寄せる。結局、思い出せなくて首を振る。
「いいわ、なんでも。今とても幸せなんだから」
 わたしがいうと、彼は微笑んだ。



 声は言う。
「残酷な現実よりも、甘い夢に抱かれていたとは思わないのかい?」
「思うわよ。けれども、甘すぎるお菓子はいずれ食べ飽きてしまうのよ」
 それに、と付け加える。
「残酷な現実にでも立ち向かってる子を知っているから、そんな甘えは許さない」



 たくさん、たくさん、話をして。もう話すことが思い浮かばなくて、わたしは彼の目を覗き込む。そのわずかに灰色がかった彼の目は、いつもと同じように優しかった。
「また、この目にあえてよかった」
 彼の前髪をかきあげ、額をくっつけ、呟く。呟いてから、自分の言葉の意味がわからなくなる。
「どういうことかしら?」
 彼は何も言わなかった。わたしは、まぁいいわ。とだけいう。彼は微笑んでいた。

 彼はずっと微笑んでいた。

 何かが違う気がした。



「いつまでも夢に甘えてるんじゃないわよ」
 円は、寝台の上に横たわっている少女に吐き捨てるように言う。それから、寝台の端に腰掛ける。
「それじゃぁ」
 従弟に向かって微笑む。
「あとは任せた。ここは守っておくから全力でやりなさい」
「いっつもそれだ」
 それだけいうと、天井の辺りを睨みつけた。



「ねぇ、何かもっと話して?」
 わたしは額を離し、彼に言う。彼は眉をひそめる。
「話をして」
「何を……?」
「なんでもいいわ。なんでもいいから、わたしが安心する話をして。これが夢じゃないと信じさせて」
 彼は口を開き、数回動かした。けれども、何も言わなかった。



「一進一退の攻防戦、っていうのはこういうのをいうのかしらねー」
 のんびりと円が呟く。
「いや、手伝えよ、お前」
 夢魔から距離を取り直し、直純がいう。
「私がやると病室壊れかねないけど」
「いいです、俺がやります、すみません」
 いっつもこうだ、と呟きながら夢魔に向き直った。

 寝台の上で少女だけが、変わらず眠っている。



 わたしは涙をこらえて、彼に問いかける。
「ねぇ、あなたは何もかも知っているのでしょ? 騙すなら最後まで欺き通して。お願い」
 彼はわたしから顔を背けた。打ちのめされた気がした。
 わたしは彼の肩から手を離した。
「やっぱりそうなの?」
 ソファーの背に寄りかかる。
「やっぱり夢なの? これは夢なの? 嘘なの? 偽物なの?」
 気づかない振りをしていたのに。



「そろそろ終わりね」
 円が一度伸びをして、立ち上がる。

 丁度そのとき、紫色の光がはじけてとんだ。



「あなたは、……もういないのにね」
 わたしは呟く。彼は何も言わない。
「一年前のあの時から、あなたはいなくなったのに。わたし、まだ信じられないよ」
 彼は一年前に、いなくなってしまったのに。私の前から消えてしまったのに。彼は手を伸ばし、わたしの頭を撫でた。
「ごめん」
 わたしは、彼を見上げる。それから、思わず苦笑する。
「あなたは、いつでもそうやって優しいのね? わたしの夢の中でも」
 彼はわずかに笑う。
「君はもう、行かなくてはならない」
 わたしは頷く。それから立ち上がり、唇をあげてみせる。彼との別れは哀しくないと、わたしと彼に言い聞かせた。
「待ってて。いつかあなたの元に逝くから」
 わたしがそういうと、彼は軽く肩をすくめる。
「もっと後でいいよ。君の人生を楽しんでからで」
 それから左手で虚空を指す。
「ほら、君を待っている人がいる。まず、そこに帰らなくっちゃ」
 何故か、何故かその彼の台詞だけは、わたしが作ったまやかしではなく、本物の彼自身が言っているような気がした。わたしは頷き、歩き出した。

 振り返らなかった。涙をこらえるのに必死だった。



「おはようございます、身体の調子はいかがですか?」
 目を開けて、少女が一番最初に見たのはそうやっていささかうさんくさげに微笑む白衣の男性だった。
「えっと……?」
「大丈夫、ここは病院ですよ」
「え、あれ、今のは……」
 今のはなんだったのか。夢なのか。あの人が出てきた、ただの夢なのか。にしては、夢の中で夢であることに気づくという、嫌なタイプの夢だったけれども。
「あなたですね、えーっと」
 白衣の男はポケットから何か小さな紙をだし
「そうそう、突発性睡眠時夢幻覚症候群という、まあ日本でも症例の少ない病気だったわけですけど、幸いにしてうちには権威の先生がいたんで助かったわけですよ、よかったですねー」
「はぁ?」
 医者のような格好をしつつも、医者には見えないその男性を見る。
「あの、それって……」
「あ、そうそう。その権威の先生からの伝言がありまして」
 まったく人の話を聞かないその男は、少女に構わず続ける。それにしても、医者ならば目覚めた患者の脈とかとるもんじゃないんだろうか、知らないけど。
「えー、っと。これが現実だということを忘れないように。だ、そうです」
「え?」
 だって、じゃあ、さっきのは、やっぱり夢じゃない?
「うん、あれですね。これが現実だということをゆめゆめ忘れないように、ということで」
 何故か白衣の男はもう一回いった。挟まれたギャグとおぼしきものは無視する。
「あ、お母様来てますよ。ちょっと待っててくださいね。あ、それと明日には退院できますんで、よかったですねー」
 少女の反応も気にしない白衣の男は、早口で言い切ると部屋を出て行った。
 何が何なのか、さっぱりわからない。

 入れ替わりに入ってきた母親は、駆け寄ってくると、心配した、とだけ繰り返した。
『これが現実だと言うことをゆめゆめ忘れないように』
『君を待っている人がいる』
 そういうことか、と、小さく微笑んだ。
「心配かけて、ごめんなさい」
 うん、と母親は小さく頷いた。

 
 心の中で彼に呼びかける。
 ねぇ、わたしがそちらに逝く前に、あなたに逢えないかしら? そう、例えば……、
 例えば、寝ているときに見るほんの一時の夢の中で。